重心移動ベクトル化運動理論 (4) ~ 重心移動ベクトル化理論の捉え方 ~ 高橋大和 |
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今までの「フォームの考え方」は、 「速い人のフォームは、ここが違う」 といったような漠然とした捉え方で、かつ、速い人のフォームの特徴的な部分を後付理論で説明していただけであった。
はっきりとした「理論の方向性」が示されていないため、 「手足の細かい部分の動きがどうだ、こうだ」 という議論になってしまい、 時代によって理論が変わったり、「理想の動かし方」に複数の理論が登場し、選手自身がどのフォームを採用するか悪戦苦闘する所に問題がある。
私の主張する重心移ベクトル化運動理論では、 「運動は、重心が移動している」 という本質部分に着目し、 「重心を進行方向にまっすぐ(最短距離で)移動させる」 という方向性に沿って、選手自身がホームを組み立て、「人種」「体型」「筋力差」といった外的要因や「時代」にすら関係なく、ひとつの方向に向かって理想のフォームを組み立てて行くというものだ。
つまり、 「重心をまっすぐ移動させる事が出来るのなら、手や足や体幹の動きは、個々人の動かしやすい感覚に任せる」 というものである。
例えば、足の上げ方ひとつとっても、古い走法では 「太ももを高く上げる」 という理屈で、もも上げ練習などをしていたが、最近では、「日本人には向かない」という理由で、もも上げ練習は推奨されていない。
代わりに、為末大選手や末続慎吾選手に代表される「ナンバ走法」のように 「忍者のように、足は出来るだけ上げずに走る」 という走法が日本人には向いているとされている。 (為末選手のイメージでは、スリッパを履いて走るような感覚のようで、テレビ番組で子供たちにスリッパを履かせて走る練習をさせていた。
しかし、足の上げ方や手の振りといった事は、個々人の「体型」「筋力」「好み」といったものもあり、「どちらか一方の理論が万人に当てはまる」というものではない。
このため、体型などの理由から、本当はももを高く上げる方が向いている選手であるにもかかわらず、時代の流行だからといって、ももを上げない走法に変えた事で、逆に遅くなってしまうという事態が起こりえる。
選手自身は、古いフォームに戻すべきか、それとも新しいフォームを使い続けるか悩む事になる。 手や足の細かい動かし方理論が複数存在していて、「速く動く」という事に対する"ひとつの方向性"が示されていないからだ。
ところが、重心移動ベクトル化理論なら、 「重心をまっすぐ動かせるのなら、自分が動かしやすい方のフォームを採用すれば良い」 という結論であるから、 「重心をまっすぐ移動させられるのなら、古いタイプのフォームであっても、新しいタイプのフォームであっても、自分の感覚に合う方を採用すれば良い」 という「ひとつの選択肢」を、選手自身の判断で選ぶ事が可能となる。
「手足の細かい動きから全体のフォームを組み立てていくのではなく、いかにして重心をまっすぐ動かせるように手、足、体を使うかという体全体を捉えた視点から"ひとつの方向"に向かって、フォームを組み立てていけ」 という事だ。
大切な事は 「重心をまっすぐ移動させるフォームであるか?」 という事なのだ。
重心移動ベクトル化理論なら、フォーム改造といったような前向きな状況の時だけでなく、「走りの感覚が悪い」「泳ぎの感覚が悪い」といったような「不調」から抜け出す時の模索方向も示せる。
例えば不調時の修正は、 「手、足、体幹の動きに注目して、それらの細かな動きを修正する」 のではなく、 「重心の動きに注目して、重心がブレずにまっすぐ動くような、手、足、体幹の動きを模索して修正していく」 のである。
不調は、小さな部分を少し修正したからといって抜け出せるものではない。 大局的に修正していかなければ抜け出せないものである。
重心の動きをベクトル化してチェックしていけば、理想のフォームも作れるし、不調を抜け出す事にも利用できる。 細かな「手の動き」や「足の動き」といった、どっちに進んでいるのか分からなくなるような複数の複雑な思考をやめ、 「重心をまっすぐ動かす。それ以外は感覚を使って修正する」 と、向かう方向を単純化する事で「迷い」を断ち切る事が出来るのだ。
「手足の細かな動きを指摘してきた今までのフォーム理論」 からすると、 「手足を好きなように動かせ」 とは、ずいぶんいい加減な理屈のように思えるかもしれないが、それは違う。
今までのフォーム理論の方が、「根本を捉える」事をおろそかにし、表面だけを捉えたアンチョコ理論なのだ。
表面を捉えている理論だから、時代によって理想のフォームが変わり、フォームに流行があるのだ。 手足の細かな動きは、重心移動効率を考える上で2次的要因でしかなく、本質ではない。
例えば、「ずっと古い時代の選手」と「現代の選手」では、重心のブレが明らかに減っているはずだ。 あるいは、いつの時代にも重心のブレが小さい選手は強いはずだ。
アスリートには、頭で理解する「理論」と、体で感じる「感覚」のバランスが大切であり、理論に偏ってもダメだし、感覚だけに頼ってもダメだ。 理論を使って脳でイメージを作り、感覚を使って実際にそのイメージを体で表現していくためだ。
理論を意識する領域に到達している選手は、通常、ベテラン選手である。 長い経験から、多くの理論と感覚を知っているベテラン選手であるからこそ、逆に情報過多から感覚を失いやすい。
いわゆる、「迷い」が生じる。
「自分の走り」「自分の泳ぎ」といった自分のフォームの感覚が掴めなくなって、分からなくなる「迷い」だ。
「感覚」と言うと難しく感じるかもしれないが、 「走った感覚が良い」 といった感覚は、どのスポーツのアスリートでも理解できる感覚であろう。
手や足の細やかな部分の動きは、複雑な動きであり、かつ、個々人の体型や好みの違いがあり、理論で割り切れるようなものではない。 このような部分は、理論ではなく感覚を頼りにして、ベストなフォームを模索した方が良い。
「自分が良い」と思う「感覚」が、ベストなのだ。
かといって、感覚だけに頼るわけにも行かない。 世界一の感覚なら、世界一のフォームにたどり着けるかもしれないが、凡人の感覚は普通だから普通のアスリートなのだ。
凡人の感覚だけでは捕らえきれない部分を理論で穴埋めするしかない。 感覚的には良く分からなくても、理論的に良いとされる方を採用するしかないのだ。
その「理論」が、「重心をまっすぐ動かす」という事なのだ。
重心がまっすぐ移動しているのなら、手、足、体幹は自分の感覚にマッチするもので良いのだ。 重心がまっすぐ動くフォームの中で、重心がさらに速く動くようにトレーニングしていけばよいのだ。
フォームを組み立てる上での方向性は、「重心をまっすぐ移動させる」事なのだ。
次項では、運動を重心移動と捉えた視点から見た、手(上半身)や足(下半身)の役目について考察する。
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