泳道楽 (5)

〜 競技スポーツの真髄 〜

高橋大和
2009.10.01

  

 

■ 引退を考える時 

運動は、運を動かす事なり

 

ほとんどの競技スポーツ選手が夢見る舞台が、オリンピックだ。

 

本来結果である『オリンピック出場』といった事が『競技を続ける目的』であれば、その目的は達成できない人がほとんどだ。

その目的が、『オリンピック金メダル』ともなれば、4年に一度、たった一人だけしか達成できなくなる。

 

『結果』を『目的』としているから、『結果が出ないから引退』という判断に繋がる。

 

いや、『目的としてきた結果(目標)』が達成されてもなお、『引退』せざるを得なくなる。

逆視点的に見れば、『目標と目的が一致している』という事は、『引退する理由を探すために、目標と目的がある』と言っても良いくらいだ。

 

また、自分の実力がうまくコントロールできなくなり、今までの競技レベルから下がりはじめて、うまく結果が引き出せなくなった時も、選手の多くは引退を考える。

自分の力の限界を感じて、引退を考える。

 

その『自分の力の限界』が、事実であったとしても、単なる逃げ口実であったとしても、

『練習(結果に至るまでの過程)をうまく楽しめなくなった時の引退』

は、決して悪い選択ではない。

今の状況の外に身を置く事で、自分の今ある状況に対して冷静な分析ができるようになるからだ。

 

ただ、単に『勝てない。結果が出ない』といったネガティブな理由だけで、引退を選択するのはもったいないのも事実だ。

運を動かす運動をしてから、引退を考えても悪くはない。

 

自分の運に触れる体験をした時、とても不思議な感覚を味わう。

あまり、妙な事を言うと、胡散臭くなるのでやめておくが、

『運動が、体を運び動かす事から、運を動かすものになった時、とても不思議な感覚を味わう』

事になる。

 

心技体が一致した時、とても不思議な体験をする。

私の場合には、レースの数週間前から、レースのイメージががっちり固まり、実際のレースでは、イメージとまったく同じ事が起きた。

自分では決められない、実際のコースなどまで、イメージと一致した。

 

精神的に弱い私のレースイメージは、通常、負けてばかりのイメージにいつもなってしまうのだが、この時は違って、何度イメージしなおしても、勝つイメージなのだ。

自分が急に、勝つイメージを何度も再生できるようになった事が信じられなくて、何度もイメージをしなおしてみるのだが、やっぱり同じ、勝つイメージしか出てこない。

 

その実際のレースでは、予選/決勝のレース展開から表彰台の上まで、まるで、イメージのリプレイをしただけだったかのようだった。

 

などと言い出すと、もう胡散臭さプンプンなのだが、競技スポーツでの体験は、妙な新興宗教のように、呼吸を不規則にして酸欠状態になったり、修行と称して飢餓状態にしたりして不思議な体験をするのとは、(修行なんて馬鹿馬鹿しくて、した事ないから知らないけど)違う。

命の危険が迫るほどの過酷な環境に置かれた時の不思議体験は、酸欠や飢餓状態による脳の誤作動による幻覚であって、神秘でもなんでもない。

 

そんな神秘は、死ぬ時に一度体験すれば十分だが、競技スポーツで心技体が一致した時に味わう体験は、酸欠や飢餓状態などでは、当然ない。

自分の競技人生で最大のレースをするのだから、意識はとても鮮明だ。

 

せっかく、心技体の3要素の内、『体』と『技』の2つまでを高めてきたのだから、もう少し踏ん張って『心技体の完成』を見てから、引退を考えるのも悪くない。

せっかく今まで、口から心臓が出てくるような苦しい練習を続けて鍛え上げて来たのだから、心技体の完成を見てから辞めた方が、ずっと良い。

 

『オリンピックに出る』
『オリンピックでメダルを取る』
『オリンピックで金メダルを取る』

 

といったような、『結果が目的になっている』から、その結果が達成できないと思えた時に、引退以外の選択肢がなくなってしまうが、『自分をどのように磨いたか』という視点で、競技スポーツの目的を捉えると、別の選択肢が出てくる。

 

『徹底的に負け続けても、どんなに競技レベルが下がっても、辞めない。迷いがあるなら続ける』

という選択肢すら、出てくる。

 

前章で説明した、この図

 

 

を見ると、捉えやすい。

 

心技体の一致した体験は、Aさん、Cさん、Dさんで可能だ。

『能力の限界まで高めたにも関わらず、生まれ持った素質が小さかったがためにオリンピックに出場できなかった』Aさんでも、可能なのだ。

 

運動を『運を動かすもの』にするのに、『競技レベル』や『出てきた結果』は関係ない。

『自分の心技体を限界まで高め、引き出せたかどうか』が、関係する。

 

心技体が一致したレースが出来た時、他人からの評価の高低に関係なく、自分の中で十分納得できる感覚が得られる。

この感覚は、結果の優劣からくる感情ではない。

すぐに消えてしまう『感情』ではなく、『感覚』なのだ。

 

心技体が一致するほどに能力を高めて引き出せれば、『夢の結果に近い結果』にはなるが、必ずしも夢の結果と同一になるとは限らない。

そこには、他人の夢もあるからだ。

 

ただ、『描いた夢の結果』とは違っていても、自分の運を動かす事は可能だ。

その時の結果が『自分が思い描いた夢』とは違っていても、自分の想像とは別の時、別の所で、描いた夢とは別の結果が手に入る。

 

自分を限界まで高めて引き出す事は、結果の中にあるのではなく、『結果に至るまでに自分自身が歩んだ過程』の中にある。

心技体が一致するまで、自分を高めて引き出せた時、そこに競技スポーツの本質を感覚として見る事が出来のだ。

 

その感覚は、他の日常には、まず、落ちていない。

自分が突詰めてきた分野に、落ちている。