泳道楽 (13) 〜 選手寿命 〜 高橋大和 |
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■ 選手寿命が尽きる頃 競技を続けていく上で一番難しい事は、
年齢とともに(様々な環境が変わる事も含めて)、トレーニング方法やレースのやり方を変えなければいけない。 技術面も、変化(進化)させ続けなくてはならない。
といった、
『過去の成功体験を捨てて(変化させて)、新しいものを模索し続けなければならない』
という部分だ。
『過去の成功体験を元にした固定概念』 が、知らず知らずの間に積み上がっていく中で、 『変化に対して、柔軟な対応をしていかなければならない』 という矛盾を含んだ所の難しさだ。
人間は、悪条件の中でモガいたり、失敗体験から学ぶ事は簡単に出来るが、 『成功した経験則を、自分の手から離す』 というのは、非常に難しい。
そのために、過去に成功した 『練習方法(「練習量」や「やり方」)』 といったものを、いつまでも使い続けようとして、記録が頭打ちになって、 『選手寿命が尽きた』 と思って、引退する。
引退すると、それまでの選手生活を外側から眺める事が出来るようになり、その問題点に気付いて、 『あー、もっとこうしてれば良かったんだなぁ』 と気付く。
しばらくすると、 『今の脳みそのまま、体だけ若くなれればいいな。あの頃の体で、やれる事はもっとあった。限界だと思ったけど、限界じゃなかった。もっと記録は伸ばせた』 と、必ずのように言い出す。 実際、そういう話は非常によく聞くし、現役復帰する選手も最近は多い。
■ 選手寿命を決めるもの 選手寿命を縮めるのは、『体の老化』ではなく、『脳の老化』だ。
筋肉が、体を動かしているわけではない。 脳が、筋肉を動かし、体を動かしているのだ。 (だからこそ、頭の中で動作イメージが作れると、イメージと同じ動作が出来るようになる)
筋肉や体に意識があるわけではなく、『脳に意識がある』のであって、筋肉や体は、脳の道具に過ぎない。
極端な話、夢の中で動く自分の体は、リアルに自分の体だ。 寝ている体はじっとしているのに、夢の中の自分の体はリアルに動き回っている。 逃げ回る夢を見て目を覚ました時など、今まで寝ていたにも関わらず、まるで本当に走って逃げ回ったかのように、体中に、ぐったり疲労を感じ、時には息切れまでしている。 寝ていてじっとしていたはずの手足に感じるその疲労感は、手足自身が感じているのではなく、脳が感じているのだ。
つまり、体が動かなくなったのは、 『筋肉自身が老化した結果、動かなくなった』わけではない。 体が動かなくなったのは、 『脳がうまく指示を出せなくなったり、脳が出した指示を筋肉にうまく伝えられなくなっただけ』で、 筋肉自身が老化して、パフォーマンスが下がったわけではない。
事実、筋肥大速度は60歳といった中高年でも、若い人と差がない。 (科学データーとしては、例えば、こんな論文。PDF論文に直リンクが張れないので、開いたページ右下のプレビューをクリックするか、左下の「国立情報学研究所 CiNii 本文PDF」というリンクをクリックすると論文が見れます。)
つまり、60歳の人と20歳の人に同じトレーニングをさせると、同じ速度で筋肉が成長する。 『年寄りの体は、若者の体とは反対に、老化が早くて、成長は遅い』 というのは、根拠のない間違いだ。
『若者に筋肉隆々(りゅうりゅう)が多いのに、老人にはほとんどいない』 のは、筋肉が老化して使い物にならなくなったからではなく、 『筋肉を鍛えようと、脳みそが思わなくなったせいで、トレーニングを継続しないから、邪魔な筋肉と判断されて、退化していったため』 なのだ。
実際、都会でゴロゴロしている70歳はヨボヨボしていても、田舎の畑仕事をしている90歳はピンピン動いている。
『筋肥大速度だけを見て、人間の体のすべてをひと括りにするのは間違い』だが、私や私の周りの経験的に言って、どんなに少なく見積もっても35歳までは十分、現役選手で通用する(記録が伸びる)。 おそらく早くても40代前半までは、自分の限界はやってこない。
『加齢によるパフォーマンス低下』は、ほとんどの場合、単なる言い訳か、引退するためのコジ付けだ。
『本当は、長い競技生活に疲れて辞めたいんだけど、加齢のせいにしておこう』としているだけだ。 ※※ 備考 ※※ 引退したくなるような気持ちを引きずったままトレーニングを続けるよりも、一旦、引退して、外側から競技生活を捉えなおすのは、決して悪い選択ではない。 何よりも、競技を離れた時に一般社会人としてやっていくための生活設計を考えるタイミングとして、引退は新しい展開を考えるチャンスであるのは間違いない。 そのまま引退するもよし、一流の地位には戻れないとしても復帰するもよし。
疲れているのは、体ではなく、脳みそだ。
■ 実際の選手寿命 私が高校生だった1980年代の競泳選手のピークは、おおよそ高校生くらいで、大学生になると多くの選手が記録が頭打ちになり、大学卒業で引退するのが普通だった。 選手寿命と言えば、『長くて、大学生まで』と、当時の選手たちは考えていた。
例えば、1992年バルセロナ五輪200M平泳ぎで、中学2年生の岩崎恭子選手が金メダルを獲得したのは、当時活躍した競泳選手の多くが中学生〜高校生だった事からすれば、年齢的にはそれほど特殊な事ではなかった。 ※※ 備考 ※※ 年齢的な事を言えば、日本はボイコットしてしまった1980年の『幻のモスクワ五輪』で競泳平泳ぎの代表だった長崎宏子さんは、なんと小学6年生だった。
今は、20代半ばで『初代表入り』する選手もゴロゴロいるが、1980年代には、そんな年寄り選手は聞いた事がない。 『大学を卒業するまでに代表入りした経験を持っていて、卒業直後のオリンピックまで続けた』という選手はいても、大学卒業後に初代表入りする選手など、少なくとも1980年代の日本競泳界では聞いた事がなかった。 大学生ですら、『自分のピークは、もう、過ぎた』と考えていたからだ。 当時、20代中盤といえば、『もう、おっさん』としか思えず、『選手』だとは、とても思えなかった。
ところが、現在、オリンピックで活躍する中心選手は、10歳ほど高い年齢層の20代中盤が担うようになり、30歳の現役選手もいて、高校生の代表選手など、完全に若手扱いだ。
海外女子選手ではあるが、ダラ・トーレス選手のように、40歳で2008年北京五輪銀メダリストとなる選手すらいる。 (一般的に若者に有利と思われるスプリントの、しかも、層の厚い自由形で、だ)
『競泳はやっている選手が少なくて選手層が薄いから』と言われないように、陸上男子競技の例を上げておくと、例えばカール・ルイス選手のように、35歳で金メダルを獲得している選手もいて、やはり、『30歳を過ぎたからパフォーマンスが低下した』といったような年齢限界説は、支持できない。
■ 理想の選手寿命 『精神面(メンタル面)』と『体力面』 という『心身の両面』が、ともにピークを迎えてからが、選手としてのピークだ。
『先にピークに近づく体力面』だけを掴まえて、若者(20歳)限界説を唱えるのは、おかしい。
後半加速度的に成長する精神面を考慮に入れて、選手寿命を考えなくては、片手落ちであり、一般的に、選手が最も高いパフォーマンスを引き出しやすい年齢は、30歳前後辺りから、だ。
競技を続ける環境がなかなかない事もあって、多くの選手はもっと早く引退をするが、記録(結果)という面から見た時の選手寿命は、30歳以降まで延ばす方が都合が良く、体力の続く限り、後ろに延ばせば延ばすほど、精神は成熟し、良いパフォーマンスを引き出しやすい。
疲労や怪我との付き合い方さえ変えていけば、30歳以降の方が、良いパフォーマンスを引き出しやすい。
※※ 備考 ※※ また、一般社会では、例えば仕事は、40歳くらいが一番油の乗った時期と言われるが、それは、社会に出てスタートを切るのが普通20歳頃と、子供の頃からスタートした競技スポーツよりもかなり出遅れているためで、子供の頃にスタートした競技スポーツでは、それよりも10歳ほど早く精神的な成熟がなされる。
ちなみに、学問の最高峰であるノーベル賞でも、30〜40代前半頃の研究に対して贈られる事が多い。 (文部省の2006年版科学技術白書。リンクを開いて、「ノーベル賞」で検索すると、証拠の行に飛べます。もちろん、受賞研究年齢が30〜40歳という事は、昔から知られている事です。)
仕事は20歳から始めるのが普通でも、『学問』は子供の頃から始めているから、ピークが30〜40代辺りに来るのだろう。
ノーベル賞は老人が受賞しているような印象を持っている人は多いと思うが、それは、受賞が決まったのが、本人が老人になった何十年も経ってからであるためだ。 「研究が正しいか」「どれだけ科学に貢献した研究か」といった事を、数十年吟味してから、ノーベル賞が送られているためであり、受賞した研究自体は若い頃の研究成果だ。
『世界初の天才的な研究』を、その他の研究者が検証するのだから、時間がかかる。 例えば、アインシュタインの相対性理論など、あまりにも難しすぎて、当時は完全に理解できる研究者すらほとんどいなかったりと、相対性理論ではノーベル賞を受賞していない。 アインシュタインがノーベル賞を受賞した理由は、『光電子効果の法則』という、相対性理論とは別の研究に対して送られている。
他にも、『寄生虫 発ガン説』に、うっかりノーベル賞を送ったりして、後で間違いである事が分かったりといった事も過去にはあり、かなりの時間をかけて慎重に吟味し、確証が得られてからでないと受賞できない。
また、それを含めて『運』であり、仕方ない事ではあるのだが、人種差別や政治的な関与といったブラックな側面もまた、スポーツ同様、ノーベル賞にも存在している。
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