泳道楽 (12) 〜 スランプ 〜 高橋大和 |
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■ スランプとは何か? スランプとは、『自分の心』が起こした、幻想だ
自分をよく知らないから、スランプから抜け出せなくなる。 しかし、本当はスランプなんて、起きてはいない。
スランプとは、自分の心の目が、『結果』に対してだけ向いているから、起きているだけだ。 その未熟な視点が、スランプを作り出している。
『転換期に来ている合図』 と気付けないから、『スランプ』に見えているだけだ。
普通、子供の頃にスランプはない。 それがある程度成長して、大人になってくると、スランプを体験するようになる。
『子供の頃にスランプがないのは、成長を続けるだけで、つまずく事がないからだ』 そんな視点でしか物事を捉えていないから、スランプが起きる。 子供だって、つまずく事くらい、ちゃんとあるにも関わらず、その矛盾には目を向けないズルイ思考が、スランプという幻想を作り出す。
子供には固定概念がまだないので、常に新しいやり方を取り入れ続けているから、スランプを感じないだけで、 『レベルが低いからやれる事が、まだまだ多い』という理由だけで、スランプを感じないわけではない。
■ 山登り 山に登る時、頂上に近づけば近づくほど、道は険しくなる。 山のふもとでは、ほとんど休まず登れていても、頂上付近では、休息が何度も必要になってくる。
それは、当たり前の事だ。
チャレンジするその山が、日本一の富士山や、あるいは世界一のエベレスト山ともなれば、より一層の困難があって、当たり前だ。
『ふもとよりも、頂上付近の方が登るのは、簡単だ』 そんな話の方が、おかしい。 『頂上』の方が、『より高い山』の方が、困難が多いのは当たり前の事だ。
『もっと速く』『もっと強く』といって、困難の多いその高い山を目指す事を選んだのは、自分自身だ。
エベレスト山でも、ふもとの状況は他の低い山と大差はなく、ハイキング気分で登れる。
しかし、エベレスト山の頂上を目指すなら、そうはいかない。 頂上を目指すためには、まずは、体力が必要であり、訓練が必要だ。
エベレスト山の頂上にアタックするためには、頂上より少し下の場所に、ベースキャンプを置く。 ベースキャンプから先の道のりには、登山テクニックはもちろんの事、そこまでの戦術とは違った、新しい戦術が必要になるから、ベースキャンプを置き、一旦、態勢を整えるわけだ。
それを「スランプだ」と言うだろうか?
それだけの準備をしてもなお、登頂に失敗する事は多くある。 無理をすれば、登頂には成功したとしても、下山中に死んでしまう事だってある。 その場合は、一旦登頂を諦め、別の機会にまたチャレンジする事になる。
無理を押して登頂アタックをせずに、別の機会に仕切りなおすのは、何のためだろうか?
■ スランプ分析 『スランプだ』と感じる時は、普通、何度やっても結果が出ない時だ。
例えば、競技スポーツの場合、『スランプだ』と感じるような状況は、普通、記録が伸び悩んで、 『スランプから抜け出せず、また負けた。苦しい』 といったような状況だ。
しかし、よく考えてみて欲しい。 本当に、誰もが、その状況に置かれれば、『スランプだ。苦しい』と思うだろうか?
この状況の現実部分(本質部分。根底部分)は 『大会で思ったような記録が出ずに、負けた。』 という部分だけだ。
『スランプだ』という考えも、『苦しい』という感情も、それは自分自身の中にあるもので、現実世界側にはないものだ。 『単なる事象』でしかない現実世界を、自分で勝手に、『スランプだ』といった思考や、『苦しい』とかいった感情で修飾しているだけで、現実世界側には(自分の外側には)、スランプも、苦しいもない。
自分が上ばかりを見ているから、スランプだと思考して、苦しいという感情が、自分の中から生まれてくるのだ。
上を見るなら、下も見ろ。
上ばかりを見て、下を見ないのはズルイ。
全体を捉えるためには、上も下も、周りの状況も見て、自分の置かれた状況を客観的に捉える必要があるにも関わらず、 『今の自分より不幸な状況を見る事で安心するのは良くないから、上だけを見る』 といったような、高校生くらいの脳みそが考えるような視点をいつまでも使い続けた挙句、全体の一部分だけしか見えなくなって、『スランプだ。苦しい』と訴えるのは、幼稚でズルイ。
例えば、『その負けた大会に出れる所まで成長できた自分』という視点、あるいは、『それほど大きな大会の結果で悩めるようなレベルまで高まっている自分』という視点からも見て、自分の置かれた状況を捉えているか?
その大会、例えば、 『日本選手権に出場できた事を喜ぶ人』もいるし、 『日本選手権に出場できた事ではなく、日本選手権で負けた事に苦しむ人』もいるし、 『どんな結果でも納得している人』もいる。 同じ状況でも、喜ぶ人も、苦しむ人も、納得する人もいる。
『上だけを見ている』から、自分がかなり険しい山の頂上を目指していた事に気付けず、スランプだと悩む。 『日本選手権のさらに上にある大会だけを見ている』から(『日本選手権の先にある世界、オリンピックだけを見ている』から)、苦しく感じて、スランプだと悩む。
『上だけを見ている』から、自分がすでに、今までとは違った別のアプローチが必要な地点まで到達している事に気付けない。
『スランプだ』と感じるような状況は、 『今まで以上に、さらなる努力を重ねる』 事を意味しているのではない。
『過去の成功パターンとは違った新しい戦略を練り、新しい戦術を使わなければ、乗り越えられないレベルに来ている』 という事を意味している。
もし、新しい戦術を生み出す苦労を『さらなる努力』というのなら、『今まで以上の努力をする』と言えるが、今までと同じ戦術で努力を続けるのなら、『スランプだ』と悩む事になるのは、当たり前の事で、その戦術が通用するレベルには、君はもう、とっくの昔に到達している。
求めて、悩んでいるのは、その次の『新しい戦いの場』だ。
■ スランプの対処法 『スランプを経験していない選手は、本物の選手とはいえない。スランプを経験して初めて、選手生活が始まる』 と言っても過言ではないほど、スランプは、選手(大人)として起きて当たり前の事だ。
一方、『記録が伸び悩んで残念だ』とか、『苦しい』といった感情が湧くのも、これまた当たり前だ。
しかし、感情的に苦しい事と、スランプだと悩む事は別の話だ。 苦しいというのは、スランプいう状況以外でも湧いてくる単なる感情で、感情は自分の心の中の世界を表しているだけで、現実の世界を表しているわけではない。
例えば、その悩んでいる事が、自分以外の他人の事なら、同情する事はあっても、平気で飯を食い、寝れるはずだ。 その他人の悩みは、『その悩んでいる人の心の中にある』だけで、 『状況の中に悩みがあるわけではない』から、 同じ状況でも、他人に起きれば他人事だし、自分に起きれば、死ぬほど悩むわけだ。
そうやって、『結果から湧いてくる自分の感情』に囚われるから、スランプだと悩む事になる。 感情に振り回されて、悩みまで重ねるなんて馬鹿げた事は、トップを目指す選手がやるような事ではない。
苦しかろうが、うれしかろうが、自分の感情とは関係なく、 『その状況において、やれる事を、やれる範囲で、感情とは別に、淡々と、こなしていく』 のが、選手のやるべき事だ。
結果から湧いてくる感情を切り離して、現実をまっすぐ捉えれば、 『スランプは、今までのやり方を見直す時期に来た事を示す、単なる合図』 でしかない。
『ネガティブな感情』という色眼鏡を通して現実を捉えるから、スランプがまるで悪い出来事かのように見え、振り回され、自分で自分の首を絞めている事に、気付けない。
『単なる合図』に、うれしいも、苦しいもない。
これからチャレンジする新たな戦いの場では、今までとは別の戦術がなければ、戦うまでもなく負けが決まっているから、先に進めないだけだ。 新しい戦いの場で必要な『新しい思考回路(心の持ち方)』を、スランプの今、求められているのだ。
選手がスランプで悩みを感じるような状況に陥っている時、普通、努力に努力を重ねて、それでも結果が出ないという状況だ。 それでもなお、さらに努力をしようとしてみるが、それ以上、やれる事が思いつかず、『乗り越えられない壁』という妄想を抱いて、その妄想に悩んでいる。
なら、休めば良い。
その努力は、単に、休む勇気を持てないだけで、前向きな努力ではない。 『休む勇気がないから、努力を続けている』 のなら、それはネガティブな感情に左右された、ネガティブな戦術だ。
『勝てる戦術を使い、勝てる状況を作って戦うから、勝利が転がってくる』 のであって、『ネガティブな戦術』を使って、勝利が転がってくるはずもない。
勇気は、『勝てる要素』のひとつだ。 休む勇気がないのなら、休む勇気を出す事が、その状況において、やれる事のひとつだ。
スランプだと悩んでいるのなら、どうせ、その下はもうない。 休んでダメにならなくても、もう、すでにダメになっているから、悩んでるんじゃないか。
そんな状況でくらいしか、休む勇気を持つチャンスはない。 絶好調の時に持つ『休む勇気』は、『サボリ』なのか、『勇気』なのか区別がつかない。
自分の置かれた状況を、一歩引いた所で捉え直す、ちょうど良い機会だ。
『疲労との付き合い方』や、『悩んでいるその競技との新しい付き合い方』といったような新鮮な関係を、『結果以外』の所から見つける良い機会になるはずだ。
新しい姿勢で取り組めば、新しいルートからの登頂に、成功できるはずだ。
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