泳道楽 (10) 〜 イメージ 〜 高橋大和 |
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■ イメージの役目 良いイメージが良い現実を引き寄せ、悪いイメージが悪い現実を作る。
新しい視点で物事を捉えられるようになっただけでは、勝負には勝てない。 現実で勝負する前に、頭の中のシミュレーションで勝てなければ、現実での勝率も低いままだ。
なぜなら、人間は、頭の中にイメージした事ですら、なかなかうまく実現化できないにも関わらず、イメージすら作れない事は、実現化もできないからだ。
『勝利するまでのイメージ』が、頭の中で強くイメージできなければ、 『天が握る部分の運』に、結果が大きく左右されてしまう。
自分でコントロールできない部分は『天が握る部分の運』だけで(運については、第4章参照)、それ以外の事はコントロール可能な範囲だ。
自分でコントロールできる部分を、出来るだけしっかりコントロールする事で、『天が握る運』の影響を小さくする事が出来て、勝利がより確実なものとなってくる。
イメージは、 『過程』と『結果』を繋ぐ『橋渡し的な役目』 をしていて、 『積み上げてきたそれまでの努力』と『現実の結果』 を繋ぐために必要なものだ。
日常生活や通常のレースでは、それほど強いイメージは必要ないが、人生の中で何度か訪れる大勝負(チャンス)に挑む時には、『強いイメージ』が絶対に必要だ。
■ イメージの作り方 『勝利を強くイメージする』と言ったって、 「俺は強い。俺は勝つ」などと、念仏を唱えるわけではない。 (もちろん、念仏を唱える事で自信が持てるのならそれは良い事だが、『念仏を唱えるだけ』で、現実の世界の勝利を強く引き寄せるような事は出来ない。)
競泳競技の場合なら、大会全体を通したイメージをおおよそ作りつつ、 『召集所から、レース、表彰台までのイメージ』 を、より詳細に作り込む。
『レースのイメージだけ』 を作っても、それだけでは不十分だ。
レースは、レースの前からすでに始まっており(例えば、心理戦)、 『ゴールを通り越して、レースのその後までがレースだ』 とイメージする事で、ゴールの瞬間を『重大な決定的瞬間』にする事なく、ゴールを『通過点』として処理し、ゴール間際のプレッシャーを和らげる効果を狙う。
会場の雰囲気から何から何まで、完璧主義者の要領で、出来るだけ細かい所まで現実と一致するようにして、イメージを作る。
競泳選手である私の場合、実際にレースするプールに事前に何度か足を運び、 会場の位置関係やトイレの位置まで、 プールの底のタイルがコースごとに微妙に違っている事や、スタート地点とゴール地点でも違っている事を観察して、自分が泳いでいる位置(泳いだ距離)をプールの底の映像から掴む目印としたり、 実際のレースのイメージをしながらプールの横を、目標タイムぴったりに歩く事を繰り返す(1秒以下の誤差で、何度も歩けた)、 等など、ありとあらゆる事をイメージ作りのために準備し、 食事のタイミングや睡眠、ちょっとしたアクシデントがあった場合の心の対処といった生活リズムまでもイメージを作って、レースのシミュレーションを繰り返す事で、 イメージの世界をより現実の世界に近づける作業をした。
人によってやり方は違うと思うが、もし、強いイメージを作る事が出来れば、あまりにリアルなイメージのせいで、仮想勝利に感動し、涙が出て来るほどリアルなイメージ世界が作れる。
そのリアルなイメージは不思議な事に、本当に現実に起きる。
『イメージした事』と『現実に起きた事』が、詳細な所まで一致している事に、唖然とする。 実際のレースが終わった時、 『何度も頭の中で見たイメージのリプレイを、現実の世界で見ただけ』 のような不思議な感覚を味わう。
この不思議な感覚世界をあまり書くと、経験した事のない人には単に、うそ臭く、宗教染みていて、拒絶反応が起きるのでやめておくが、とにかく日常では味わう事が出来ない不思議な感覚を味わう。
レースに挑むまでに努力して歩んできた過程、つまり、
『自分の外側にある環境要因』も、 どれも、イメージを作る時の材料(パーツ)だ。
その各々のパーツを、イメージの世界でまずは繋ぎ合せ、その繋いだ理想のイメージが、現実の世界を引き寄せて来る。 現実側がイメージ側に寄ってくる(勝利が引き寄せられてくる)ので、より勝利が確実なものとなる。
もし、イメージを作らず、漠然とレースに挑めば、 『努力してきた過程』と『現実の結果』の間の溝には、 『天が握っている運』が大きく入り込んできて、 自分に勝利が転がってこない。
勝負強い者同士の戦い、つまり、高いレベルにまで勝ち登ってきた者同士には、心技体の部分に差はほとんどなく、実際に、誰が勝っても良い状況になる。 そこで、差が出るとすれば、どれだけイメージが強く固まっているかの差になる。
もし、そこまでして負けたのなら、それは自分の努力とは無関係な『天(神様)が握っていた運』が作用したのであり、『悔しい』『残念』といった感情とは別に、『仕方ない』と思える。
感情とは別に、『仕方ないという感覚』を感じる。
逆に言えば、仕方ないと思えない人間には、(意識できていないだけで)他にやれる事がまだあったのだ。 そのやれる事が何だったのかが分からないから、『悔しいといったような負の感情』に、いつまでも振り回され続ける事になっているのだ。
■ 高校生の私 『強く固まったレースのイメージ』は、頭の中で精度良く再生できる。 30秒のレースだとすれば、正確に30秒で再生できる。
しかし、最初の頃は、そんな事はまったくできない。
私も高校生の時に、イメージトレーニングもどきをしたが、目を瞑ってレースをイメージすると、途中で別の事が頭に出て来て、何度やってもレースが終わらなかったり、中間レースが抜け落ちて、いきなりゴールしたりしていた。 寝転がってイメージすると、興奮するどころか、逆に眠くなって寝てしまうくらいだった。
強いイメージが作れるようになっている時、寝る前にうっかりイメージを再生すると、興奮して寝付けなくなるのだから、高校生当時の私のイメージトレーニングは、いかに『もどき』だったか、良く分かる。
1984年サラエボ冬季オリンピックで優勝候補でありながらメダルを逃し、1988年カルガリー冬季オリンピックで銅メダルを獲得したスピードスケートの黒岩彰さんが、 「1984年サラエボ五輪の後、イメージトレーニングを取り入れ1988年カルガリー五輪の時には、滑りのイメージだけでなく、リンクの空気の匂いまで、イメージの中で感じる事が出来た」 といったような話をテレビでしているのを見た高校生の私は、とても信じられなかった。
当時の私の頭が描くレースイメージは、一度もまともに、スタートからゴールまでを再生できなかったから、 『黒岩彰さんは、銅メダルを取った事で、大げさな事を言える立場になったんだろうな。大げさな事を言ってもバカにされないメダリストって立場は、うらやましいな』 程度に考えた。
高校生当時の私は、 使っている視点は子供だし、 環境のせいにしてばかりで自分の心をまっすぐ見つめるような事はしていないし、 『強いイメージが作れて、再生が出来る人』のバックグラウンドを見ようとするような目も持っていなかったし、 ましてや、実際のレース会場に足を運んで情報収集するような事もしないし、 集めた情報からイメージを作るのではなく、漠然とレースを頭で想像するだけで、それを『イメージトレーニングという言うのだ』と思っていたのだから、 自分の想像を越えた話を拒絶したくなるのも当然だった。
しかし、強いイメージは、現実を引き寄せる力を持っている。 この力を、『神秘的な意味での力』と考えると拒絶したくなるので、この力を理屈で捉えておく。
心技体の努力を重ねる事は、競技者なら誰でも出来る。 勝ちたくて競争しているのだから、努力をするのは当たり前だ。
しかし、 『自分の努力とは関係のない所、例えば運で、勝敗が決まり、今までの努力が一瞬にして水の泡となってしまう可能性が、常にある』 という『負の可能性』が、現実の結果の前に立ちはだかって邪魔をし、不安な気持ちが心を支配しそうになる。
『大きな大会』『重要な大会』『一生の内に何度もやってこないチャンス』であれば、あるほど、心に不安が入り込んでくる。 その不安に対してなすすべが無い時、心に入り込んできた不安は、いよいよ大きくなり、心を支配し、ネガティブな状況を抱えたままレースに挑み、負けてしまう。
その不安に立ち向かう手段が、勝利の強いイメージである。 その強いイメージが、 『自分自身のやってきたプロセス(過程)を信じる力』 となり、ポジティブな状況を生み出し、実際に勝利する。
そう考えれば、『強いイメージは、現実を引き寄せる力を持っている』という事を、受け入れやすいだろう。
どんなに強い選手でも、自分が重要だと考えているレースでは、常に不安が心を支配しそうになる。
しかし、気付かなければならない。
イメージの中で、理想的な良いイメージを強く持っても、誰にも迷惑をかける事はない。 良いイメージを持っても良い結果が出ない事はあっても、良いイメージを持ったせいで悪い結果になる事もない。 良いイメージを持つ事に、メリットはあっても、デメリットはない。 それならば、良いイメージを持たない理由など、なにひとつない。
勝利者は、不安をコントロール出来ているだけで、不安を持っていないわけではない。
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