弾道スタート理論(3) 高橋 大和 |
||||
ここでの解説は、スタート台からの飛び出し角度について述べる。 「高く飛び上がって落下速度(落下エネルギー)を利用するスタート」 が良いのか悪いのかという問に答えを与えるものである。答えは 「高く飛び上がるメリットはまったくない」 のである。
【飛び出し角度】 弾道計算というと、弾道ミサイルあたりをイメージするが、物理の教科書に出てくるボールを投げた時の軌跡を計算した、投射曲線と同様である。 投射曲線といえば、野球のボールを遠投して、その軌跡を追った放物線の絵を思い出すだろう。 物理が苦手で勉強しなかった人でも 「ボールを45度の角度で投げ出すと一番遠くまで飛ぶ」 という事は知っているだろう(ただし、20Mしか飛ばない砲丸投げ競技の場合、落下地点が投げ出された手の位置より下であるため、その高低差「約2M」が飛距離の10%にも相当し無視できないため、おおよそ36〜38度がベストな投射角になる)。 この知識から、競泳のスタートにおいても「45度で飛び出せばよい」と考えてしまいがちだが、先の日原選手の腰の動きを見て分かるように、実際にスタートの速い選手は、スタート台から足が離れた瞬間、 「0度」で腰を真ん前に放り出している。 「なぜだ?遠投の理論からすると上に飛び出すべきではないのか?」 ※※※※※※※ 備考 ※※※※※※※ 「投げたボールの放物線は、横へのベクトルと上(又は下)へのベクトルとの和」 である事を思い出して欲しい。 多くの人が苦手な「物理」は出来るだけ使わないで説明を行うが、どうしても避けて通れない部分は物理計算を使って説明する。 遠投と競泳のスタートには大きな違いがある。それは 「遠投は距離を競う競技で時間は競わないが、競泳は時間(速度)を競う競技だ」 という事だ。 この違いのイメージを野球で例えれば 「外野は投げ上げて返球してくるが、速度を競っているピッチャーは、キャッチャーミットめがけて、マウンドからまっすぐ投げ下ろす」 のと同じだ。 「距離を競う競技」と「時間(速度)を競う競技」での競い所の違いを説明するために、それぞれの違いを見ていく。 野球のピッチャーは時速150kmでボールを投げる。これを秒速に直すと41.7メートルである。素人でもこの半分程度の速度は出ているだろう。 ところが競泳選手のスタート台蹴り出し速度は、おおよそ秒速4.5メートル前後である。 ボールを投げる速度とは、10倍もの差があるのだ。 ピンとこないかもしれないが、「秒速4.5M」は、遠投理論内で考えるには致命的に遅いのである。 「何と比べて遅い?」 それは 「重力」 と比べて遅いのだ。重力は厳密には重力加速度であり 9.80m/s^2 なのである。 これを分かりやすいように、かなり砕いて言えば、 「体重、形に関係なく、秒速9.8Mで加速しながら、落下する」 のである。 なるだけ難しい理論使わず、結果だけをかなり簡潔に表現すれば 「ボールの遠投は重力に逆らうだけの力を十分持っているが、重力と同じスケール内にある競泳のスタート速度は、重力に逆らうだけの力がない」 のである。 重力と競泳では、同じ「秒速」を単位に用いているのに、ボールの遠投では「時速」を用いている事からも、そのスケールの違いが分かるだろう。 スタートの軌跡を「連続した放物線」と捉えると分かりにくい。縦と横へのベクトルに分けて考えると分かりやすくなる。 横方向へは、一定のスピード(蹴り出した時の速度)で移動している。 水面方向へは、 「自由落下(自然落下)している」 のである。このベクトルの合計で放物線を描いているのである。 感覚的に信じられないだろうが、先に示した日原選手の写真をきっちり計っても、横方向へは一定の時間内に一定の距離しか動いてない。 水面には、だんだんと加速しながら落下している。 「加速」といっても直感できないので、以下の表を見てもらいたい。公式を使って0.1秒ごとの落下速度と落下距離の変化を示したものだ。
図 3-1 0秒から1秒に向かって数字をよく見ていただきたい。 落下距離が、めきめき大きくなっている事がわかるだろう。 落下距離は「Y=1/2Gt^2」の公式から分かるように、時間の2乗倍で大きくなるのである。 2倍ではない。「2乗倍」である。横方向へは1倍でしか動けないのに、下へは2乗倍で移動していくのだ。 実際、日原選手の足がスタート台から離れる瞬間の腰の位置が水面からおおよそ1Mで、腰の入水完了まで0.43秒程度である事と、表の値は一致している。 空中に長くいればいるほど、勢いを下に急速に増しながら落っこちていくのである。 しかも、遠投のボールの速度(41.7m/s)なら、わずか2%(0.98/41.7)にしか相当しない0.1秒後の落下速度(0.98m/s)ですら、競泳選手の飛び出しスピード(4.5m/s)の場合、22%(0.98/4.5)に相当する。 競泳のスタートの場合、空中に出てから0.1秒後ですら、重力を無視できない状況になってしまうのである。 まだ、ピンと来ない人もいるかもしれない。 では、スタート台から足が離れた瞬間、0度で飛び出す時と45度で飛び出す時の速度をベクトルに分解して考える。 以下の図を見ていただきたい。重心を真ん前に放り出す事が一番合理的である事が分かる。 運動をベクトル化して考えるというのは非常に重要な事であるので、よく注意して、考えて見て欲しい。
図 3-2 赤線は競泳選手の一般的飛び出し速度4.5m/sである。 0度で飛び出せば、蹴り出した力4.5m/sはすべて前方への移動速度に利用される。 しかし、同じ力で飛び出しても、45度で飛び出した時には、前方への移動速度は3.18m/sしか得られない。重力に逆らって上に飛ぶ力(3.18m/s)に分散されるためだ。 飛び出し角度が違っただけなのに、割合にして30%もの差を飛び出しの瞬間につけられてしまう。 スピードを競っているのに、レース中で一番スピードの出ているスタートで、30%ものスピード差は痛い。 これは、非常に重要な事実だ。 タイム競技は前方への移動速度を競っている。にもかかわらず、上下方向へ力を分散し、前方への移動速度が小さくなる事にメリットがあるはずがない。 同じ力の選手であれば、その力を出来るだけ多く前方への移動速度に利用している者が勝利するのは間違いない。 この「ベクトルにして考える」というのは、泳ぎでも、陸上競技でも、すべての運動において重要な事でありながら、忘れがちである。 「ん?飛び上がったら、その分の大きな重力加速度を入水後に利用できるから、速くないとしても、せめて同じじゃないか?」 という疑問を持ったかもしれない。 しかし、45度で飛び出した時の落下速度を前方への推進力に生かすことは限りなく不可能に近い。 これは次項のスタート第3局面で詳しく説明するが、15Mの高飛び込み台に構えた選手と、普通の飛び込み台に構えた選手が同時に飛び込んで、浮き上がりを競った事を想像してみて欲しい。 15Mの高飛び込み台から飛び込めば、1M足らずのスタート台を蹴り出すのとは比べものにならない落下スピード(3倍以上)を得る事ができる。しかし、それで入水後、前へ勢いよく飛び出せる絵が想像できるであろうか? 下に向かっている落下エネルギーで「深く潜る」事は容易に想像できるが、その力を前方に向けるのが難しい事は競泳選手なら直感的に分かるであろう。 また、前へ進む時間を競っているにもかかわらず、高い所から攻める選手は上下方向への移動に時間を使っているのだ。 と言われても、まだ、 「飛び上がるスタートの方が良いような気がする。抵抗の多い水中より、抵抗のない空中で飛距離を稼いだ方が良いような気がする」 人のために、0.1秒ごとのプロット図を示す。
図 3-3 スタート台から足が離れた瞬間の腰の高さが水面から1M。 4.5m/sの同じ力で、一方は0度で、もう一方は45度で飛び出した時のプロットだ。 縦軸は、足の指がスタート台から離れた時の腰の位置を0cmとし、横軸は前方への移動距離で単位はメートルである。 0度で飛び出した方は、水中76.4cmの所でストリームラインに入り、入水後4.5m/sから2.5m/sに急減速したと仮定した。(入水直後に、フリースタイル泳速なみの2.5m/sに減速するというのは、入水にかなり失敗した時であろう。競泳選手が普通に入水すれば、おそらく入水後0.5秒以内なら3m/s以上出ているはずだ。) パッと見ると 「やっぱり45度で飛び出した方が1Mも遠くに飛べてるじゃないか!」 と思うか知れないが、これは0.1秒ごとの10プロットした図だ。 45度で飛び出した選手がストリームライン位置に到着した時には(1秒後の10プロット目)、0度で飛び出した選手は、32cm前、時間にして0.1秒前にいるのだ。また、0度で飛び出した時の入水直後の失速は大きく見積もってあるので実際には、もう少し差が開くものと予想される。 しかも飛距離「1Mの差」というのは腰の入水ポイントで1Mなのだ。次項で理由は説明するが、足の指の入水ポイントで比較すると、45度で飛び出した場合には手前に足が落ち、0度で飛び出した場合の入水位置はもう少し先になって、1Mもの飛距離差は出ない。 「より遠くに」という「飛距離絶対論」の思考にハマっている人は、 「入水地点が手前の選手は、その分早く水面に到着している」 事を忘れてしまっている。手前に早く着水しても、そこでレースを辞めているわけでなく、そのまま前に進んでいるのだ。 つまり、競泳は、砲丸投げ競技のように「落ちた地点の距離」を競っているのではなく、「前へ移動する時間を競っている」事を忘れているのだ。 砲丸投げのように到着時間は競わず、飛距離だけを競うのなら、高く飛び上がる戦略は正しい。 しかし、競泳競技は「スタートを飛んで終わり」ではないのだ。 レース映像を思い出して欲しい。スタートの水中動作で後ろにいる選手が浮き上がりまでに追いついたり追い抜いたりする映像は思い浮かばないだろう。その事からもこの0.1秒の差を浮き上がりまでに逆転する難しさを直感できると思う。 もう少し詳細にグラフを見てみよう。 45度で飛び出した放物線の頂点では同じ0.1秒ごとのプロットにもかかわらずプロット密度が増え、その分、滞空時間が延びているのがわかる。 上方へ飛ぶと、下方へ落ち始めた瞬間、上下方向の移動において静止する瞬間があるという事だ。 下りのエレベーターが動き出した時に「ふわっ」となるあれだ。一瞬無重力状態になり、その場に静止するために「ふわっ」となるのだ。 前方向への移動時間を競っているのに、静止する瞬間がある無駄は理解できるだろう。 蹴り出す力を分散させ空中で静止させる、この上下方向への無駄な動きが、足離れから1秒後のストリームラインで 「距離にして32cm、時間にして0.1秒」 の差を付けられているのである。 ただし、この「32cm(0.1秒)の差」は、実際には大きな問題ではない。 本当の問題は入水角度にある。 次項では、この入水角度の問題について考察する。
|
||||