泳道楽 (8) 〜 完璧主義者の非完全な世界 〜 高橋大和 |
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■ プラス思考の限界 『善人になれ』 そんな事を言っているのではない。
『当初は、運を引き寄せ、勝利するために、プラス思考を取り入れた・・・良い素質を積み上げ、悪い素質を転化して積み上げて実力を付け、運を引き寄せるために、一日十善のような人間性までをも高めていく・・・・でも、そんな良い事ばかりやってられない。自分は、そんな善人になんてなれない』 それが、完璧主義者の結果だ。
プラス思考回路を採用しても、その回路の運用者が完璧主義者では、『なれない』という否定的(後ろ向き)な結果が出てきてしまう。
その結果は、マイナス思考回路が、初めから『無理だ』と諦めるのと、同じ結果だ。
『Yes or No』
その『合理的で完璧に思える思考』の先には、『破綻』しかない。
■ 完璧主義思考の分析 完璧主義は、目的を達成する前に破綻する
完璧主義の根本には、 『プラスの結果は、プラスの積み上げから出来る』 といったような思考がある。
『マイナスな事やネガティブな事は、プラスの結果には繋がらない。排除すべきもの』 といったような思考だ。
簡潔に言えば、『ミス(BAD)も想定内』とか、さらに発展的な『ミス(BAD)を取り込む』という思想がない。
『ネガティブな素質を転化し、積み上げて、実力を付ける』 という事には視点が向いても、 『ミスといったようなネガティブな出来事も、自分の歩む過程の中に取り込む』 という視点や、 『BADな状況は、歩む過程であるのが当然で、ない方があり得ない。現在はGOODな状況がそろい過ぎているから、BADを取り込んでバランスを取らないと、今は良くても、未来に破綻する危険がある』 といったような思考にまでは向いていないため、『勝利への究極の努力』が、『自分には無理な善人的行為』に見えてしまう。
そもそも人間は、善人でも悪人でもない。 善と悪の両面が、誰の中にも存在している。
『練習をして強くなりたい』事と、『練習をサボりたい』事の相反するものが一人の人間の中にあるのが当たり前だ。
『坊主が物欲にまみれて高級車に乗り、宗教を単なる就職先程度にしている割には、恥ずかしげもなく、立派な講釈を垂れている』 のを思い出せば分かるように、人間が善人などになる必要は、まったくない。
『究極の善人』の役目は、神様や仏のような『あの世の者』だけが担えばよい。
競技スポーツを狭い範囲で捉えた時、良い事を積み上げるのは、『運を引き寄せ、勝利するため』であって、『完璧な善人になるため』ではない。
にもかかわらず、完璧主義者は、『プラス思考』と『善人』の違いがはっきりしない。
■ コンピュータ 究極の完璧主義者は、コンピューターだ。 コンピューターは、0と1(電気のON/OFF)だけで動いている。
コンピュータの仕組みを知らない人の中には、コンピューターは天才だと勘違いしている人が多い。 『完璧に計算をするし、完璧に記憶するし、文句を言わない。天才だ。』と。
しかし、コンピューターは究極のバカだ。
人間がすべて、完璧に教えなければ、何も出来ない。 計算の仕方を完璧に教えて、記憶の仕方を完璧に教えなくてはならない。 (『教える』とは、人間がプログラムを組んでインストールする事)
『完璧』じゃなければならない。
例えば、『表示しなさい』という命令である 『print』 を誤って 『pprint』 とタイプミスしたとしよう。
人間なら、文章の前後の脈絡から、 『あー、printとタイプしようとしたけど、pを2回押しちゃったんだな。printという事だな』 と理解する。
しかし、完璧主義者であるコンピュータは違う。 『pprintってなに?知らない』 とERRORを返して、仕事を止めてしまう。
一字一句間違えずにprintと命令すれば、何万回でも文句を言わずに命令どおりに『表示』をするが、他の何十万行がどんなに正しく正確に書かれていても、たった一箇所、pを連打しただけで、何の努力もせずに、仕事を放り出す。
『人間がミスをする事は、当たり前だ』 という考え方を、人間は違和感なく受け入れているが、 『ほとんどの場合は正しいんだけど、たまに間違っている事もある。気をつけてね』 なんて曖昧な状況は、完璧主義者のコンピュータには、絶対に受け入れられない。
究極の完璧主義者であるコンピューターは、少しでも違った状況が起きると、『やーめた(ERROR)』と、仕事を放り出す。 自分が考えていた良い状況から少しでも外れれば、『やーめた』と放り出す。
■ 完璧主義者の矛盾 『バカと天才は紙一重』と同様に、物事の左右の両端も繋がっている。 プラス思考とマイナス思考も、両端で繋がっている。
良い事を積み上げる作業で難しいのは、善を積み上げる事ではなく、どう悪を取り込むか(処理するか)だ。
人間は、善人でも悪人でもない。 善と悪の両面が誰の中にも存在し、共存して、一人の自分なのだ。
善だけの人間も、悪だけの人間も、この世にはいない。 仏も鬼も、あの世の存在だ。
同様に、プラス思考の中にも、BADな状況が存在する方が当たり前だ。 自分ではどうしようもないBADな状況を、『しょうがない』と受け入れたり、場合によっては、悪影響の少ないBADな状況を自ら作り出し、自己破綻が起きる前に、GOODとBADのバランスを取るのもプラス思考の一部なのだ。
『GOODが存在するために必要なBAD』なのだ。
私個人の手法としては、競泳の世界は、自分にとって神聖なものとして扱い、BADな状況を極力排除しているが、競泳以外の所では、BADな事もあえて取り入れ、自由に振舞うようにしている。 純粋に追求する世界と、その必要性のない世界にラインを引く事で、トータルの一人の人間としては、善悪が共存する普通の人間でいられるように、バランスを取っている。
『良い状況と悪い状況をバランスよく受け入れ、処理できる範囲で前向きに処理していく事』 が、プラス思考の本質であるにもかかわらず、完璧な状況を求めたがために、前向きに進むどころか、後ろ向きにすらなれず、破綻するのが完璧主義者のプラス思考だ。
例えば、重要な大会でミスをしたといったような時、完璧主義者の思考には、 『この大会がオリンピックじゃなくて良かった。この大会で悪運を使っておいて良かった』 という視点は、登場しない。 『オリンピックでミスをしておいて良かった。悔しいけど、まぁ、引退後の長い人生の方のミスじゃなくて良かった』 とは考えない。
曖昧なその『余裕』が、結果的に『強さ』を生み出し、勝者の強さを支えている面が見えないのが完璧主義者の視点だ。
『完璧』と『破綻』。
それが、曖昧を受け入れられない完璧主義者の『過程』と『結果』だ。
■ 曖昧を処理する能力 『グレーゾーンを処理する能力』 これが、トップに近づいた選手に求められる、難しい課題だ。
完璧主義的なハードな努力をしつつも、破綻を起こさないようにグレーゾーンでバランスを取る感覚を求められる所が、難しい。
コンピューターがバカで、人間が偉いのは、 『曖昧をうまく処理できるかどうかの違い』 と言っても過言ではない。
「死ね」 と言われたら、人間は『売り言葉に、買い言葉だ』と理解するので、本当に死ぬ奴は普通はいないが、コンピューターには、相手が言った 「死ね」 の微妙なニュアンスが理解できないので、本当は 『「死ね」という名前のファイルを開こうとしただけだったんだけど、それを間違ってタイピングしてしまった』 のであっても、必ず死ぬ。
このように、白黒ハッキリした所の処理をする事は、コンピューターでも出来るが、その間にあるグレーゾーンを処理できるのは高等な人間だけだ。
つまり、 『曖昧な所をうまく処理できるかどうかという所に、優秀かどうかの差が出てくる』 と言っても良い。
トップに近づいてきた選手が処理しなければならないグレーゾーンは、誰にでも処理が出来る『ねずみ色』のグレーではない。 白に近いグレーや、黒に近いグレーだ。
『やるべきか、やらざるべきか』 その微妙な所の判断をうまく処理できる選手が、勝利に近づく。
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