泳道楽 (3) 〜 結果の方程式 〜 高橋大和 |
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■ 結果の方程式 【結果の方程式】 [結果] = [素質] + [実力] + [運]
物事の結果には、必ず理由がある。 『偶然そうなった』という結果もあるが、その『偶然』にも理由がある。
それを表したのが『結果の方程式』だ。 『とある結果』が、『偶然そうなった』のは、不確定要素を含む『運』が影響しているのだ。 ほとんどの結果は、『素質』と『実力』の合計で決まるが、素質と実力の影響を超えて、『運』が作用した時に、予想とは違った『偶然の結果』が生まれる。
この事は、『素質』『実力』『運』の関係をピラミッド図で見ると分かりやすい。
『運』『実力』『素質』の『結果の三要素』は、『心技体』と同様に、『運』が頂上に位置するため、素質と実力をどれだけしっかりとつけていても、運によって結果が左右されてしまう事があるのだ。
ピラミッド図を見れば分かるように、『結果の三要素の性質』と『心技体の性質』は、フラクタルな関係で、各々の要素同士も、同じような性質を持っている。
例えば、『持って生まれてきた体を磨くと、技が身に付く』事はすでに話したし、直感的にも、しっくり来る話だ。 同様に、『素質は持って生まれてきた能力で、その素質を磨くと実力になる』。 ほら、フラクタルだ。
『どこまでが素質で、どこからが身に付いた実力かが曖昧』 な部分と、 『どこまでが持って生まれた体(体力)で、どこからが身に付いた技なのかが曖昧』 な部分も、やっぱりフラクタルだ。
『心が、体と技を磨き上げてからでないと鍛えられない』 のと同様に、 『運も、素質と実力を磨き上げてからでないと鍛えられない』
「ん?運は鍛えられないだろ?」 と多くの人は思うだろうが、運も鍛えられる。 運の性質については、テーマが大きいので次章で改めて取り上るので、ここでは、『素質』と『実力』について、考える。
■ 素質 人間はこの世に誕生する時、各々の器を持って生まれてくる。 これは、その人が持って生まれた運命であり、変えられない。
多くの人はおおよそ同じ程度の器を持って生まれてくるが、相対的に器が大きい人もいれば、相対的に小さい人もいる。
『心技体』の1例で言えば、体が大きい遺伝子を持って生まれてくる人もいるし、小さい体の遺伝子を持って生まれてくる人もいる。 体を例に挙げたが、持って生まれた気質や、運動センスなども同様だ。
もし、素質が違っている二人が、同等のテクニック(実力)を手に入れたとすれば、当然、『素質』の大きいBさんが勝つ。
遊技スポーツレベルでは、実力や運を高めるほど真剣にスポーツに取り組む奴はいないので、実質、『持って生まれた素質だけの勝負』が行われる事になって、生まれつき運動神経の良い人間がたいてい勝つわけだ。
ただ、持って生まれた素質とはいっても、多くの場合、『他人と比較してどうか』というところは、曖昧でよく分からない。 飛びぬけて良いものと、飛びぬけて悪いものは、おおよそ見分けが付くが、ほとんどの場合、素質は結果論だ。
良い結果を出せば、良い素質と言われるし、悪い結果を出せば、素質がないと言われる。 良い素質だったにも関わらず、本人の努力が足りなかったがために負けたのであっても、『素質がない』という烙印を押したがるのが人間だ。
万が一、明らかに運動神経が鈍かったとしても、勉学に才能があったり、音楽や美術の才能があったりといった別の才能があるので、自分の才能に合った分野で磨きをかければ良い事で、気にする必要はない。 才能がない事を気にする暇があったら、『自分の才能を見抜いて、その才能を生かせる分野がないか』を気にした方が良い。
また、『自分を磨く』という事と、才能から来る勝ち負けの結果には何の関係もない。 才能がなくて負け続けていても、人間は磨かれる。 『好きこそ ものの 上手なれ』で、好きなら才能とは関係なく続けるべきだ。
■ 実力 努力を重ねて、持って生まれた素質に磨きをかけると、それは実力になる。
遊技スポーツレベルでは、結果が素質に大きく左右されていたが、真剣にスポーツに取り組み始めて競技スポーツになってくると、『素質と実力の合計値』が大きい方が勝つようになる。
大雑把に言えば、努力した方が勝つ。素質があっても、努力しない奴は負ける。 ※※ 備考 ※※ 『運』をどうこう言う前に、『技を磨く努力』など、やるべき事がまだまだたくさん残っていて、タッチの差で負けた事を運のせいにするのは、単に逃げ口実でしかない。 運は、持って生まれた素質を『努力の限界値』まで鍛えた実力者同士の勝負の時、作用してくるものだ。 そんなに容易く、『運をかけたハイレベルな戦いの場』に参戦する事はできない。
スポーツではどの競技においても、ある程度確立された『良いフォーム』というのが存在し、ほとんどの選手は、おおよそ同等のテクニックを身に付けている。 先ほどのAさんとBさんの戦いのような事が行われている。
例えば、競泳の日本選手権でいえば、同じようにハードなトレーニングをこなし、同じような心肺機能を手に入れて、同じような泳ぎを身に付けている選手同士が勝負をしていて、やっぱり素質の部分がどうしても作用してきて決着が付いてしまう事が多々ある。
順位としては、Bさんの勝ちで、Aさんの負けだ。 Bさんがヒーローインタビューを受けて、Aさんは注目を浴びる事なく引き上げていく。
ただし、Aさんは競技結果としては負けているが、人間としては勝っている。 Bさんを、報道がどんなにチヤホヤ英雄扱いしていても、人間的には、Bさんは英雄に値しない。 英雄どころか、並以下だ。
競った『結果』に視点を置くから分かりにくい。 『持って生まれた素質をどのように磨いたか』という視点で見比べれば、その人間性の差は一目瞭然だ。
大きな素質を持った人間なら、同じように技を磨いても、"より大きな実力"を付けるのが普通だ。 さらに精進すれば、より大きな運も引き寄せる事が出来るのが普通だ。
にもかかわらず、『生まれ持った素質の小さいAさん』と同等の実力しか手に入れていない。 Bさんは、自分の高い素質の上にアグラをかいて、自分の能力を最大限引き出していないといえる。
つまり、Bさんは努力不足であり、『小さな素質から実力を引き出したAさん』の方が、当然、人間的に良く磨かれている。
その点、Aさんは、少ない(あるいは小さい)素質を最大限磨いて、実力を付けてきた。 しかもAさんは、ネガティブ(マイナス)な素質すらも磨いて実力にしている。
『ネガティブな素質を実力に変えられるわけがない』 と考えるのは短絡的だ。
例えば、1998年長野五輪金メダリストで、スピードスケート500Mの元世界記録保持者である清水宏保選手は、身長162cmしかない。 元世界記録保持者であるダン・ジャンセン選手や現世界記録保持者(2009年現在)であるウォザースプーン選手を始め、外国勢が軒並み180cmを越えている選手が全盛のスピードスケート界においてでだ。
清水選手は、以前、取材の中で 「身長が低かったから、人の何倍もトレーニングした。そのおかげでトップ選手になれた」 と言っていた。
清水選手のトレーニングは、取材した記者が「直視できない。般若の形相」と書いていたほど、ハードなものだ。 あまりの追い込んだトレーニングに、口から泡を吹いて白目を向いているからだ。
しかも、彼には専属のコーチはいない。 一人で、自分を追い込んでトレーニングをかけている。 彼のトレーニングは、当時としては異常なことだったようだが、後に、外国選手も採用して対抗してくる事となった。
このように、『背が小さい』という、一見ネガティブに思える素質を、プラスに変えて、実力に取り込んでしまうのが、人間的に良く磨かれた選手だ。 仮に清水選手が負けたとしても、その結果によって『磨かれた人間性』が曇る事はない。
競技スポーツも中級レベルでは、持って生まれたネガティブな素質をマイナスと捉えて、実力から排除するものだと考えている選手が多い。 しかし、素質というのはそういうものではない。
プラスの素質であれ、ネガティブな素質であれ、それは本人が、プラスに利用したか、マイナスに利用したかで、まったく違った結果が生まれてくる。
プラスの素質にアグラをかいて腐らせれば、それは、『素質の生かし方を知るチャンスが得られない』マイナスな素質だったといえる。 世界チャンピオンになるチャンスを潰したマイナスな素質だったといえる。
プラスの素質とは、『プラスに利用した素質』の事を言うのであって、表面的なプラスマイナスとは違う。
つまり、Bさんは、持って生まれた高い素質を余す所なく実力としていれば、さらに大きな実力を付け、さらには大きな運も手に入れて、清水宏保選手のような世界チャンピオンになれる逸材だったにも関わらず、日本チャンピオン程度で、素質を腐らせてしまったわけだ。
『素質を余す所なく実力にして、日本代表に入れなかった選手』 と、 『素質を腐らせ、素質の高さだけで代表入りした選手』 のどちらが人間的に偉いと言えるか、分かる事だろう。
人間の『持って生まれた器の大きさや形』は、それぞれ違う。 大きな器を持って生まれてくる人もいれば、小さな器しか持たせてもらえなかった人もいる。 器の大きさだけでなく、『丸い扱いやすい器』の人もいれば、『歪な形をした扱い難い器』の人もいる。
しかし、その人間が持つ『人間的な深み』は、持って生まれた器の大きさや形とは関係ない。
『丸くて大きい扱いやすい器』を持って生まれてきたにも関わらず、『普通の人よりも相対的に大きい才能』の上に胡坐をかいて、自分の器の能力を使いきらずに、宝の持ち腐れにした人の人間性は、ウンザリするほど浅い。
しかし、『扱い難い歪な形をした小さな器』しか持たせてもらえずに生まれてきた人間も、ネガティブな要素までをも自分の能力として使い切った時、その『歪で小さな器』からは、溢れるほどの深い人間性が滲み出てくる。
人間的に立派かどうかは、『誰からでも見える表面の競技結果』で決まるわけではない。 『持って生まれた自分の器の能力の限界に、どこまで迫れているか』で、決まるものだ。
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