平泳ぎ (24)

〜 あとがき 〜

高橋大和
2008.11.20

  

 

平泳ぎは私の専門であるため、感覚も理論も自分の人生の中で一番深く突詰めた状態にある。

しかし、私の感覚より優れた選手は、いくらでもいる。

私の理論より優れた理論を頭の中に持っているコーチや学者もいくらでもいるはずだ。

特に感覚面は、私より競技レベルの低い人には参考になるだろうが、私と競技レベルが同等以上の人たちには、ぜんぜん役立たないだろう。

 

しかし、私より優れたその「感覚」と「理論」をリンクさせ、かつ、その詳細を「万人に情報提供」している人は非常に少ない。

雑誌などで、ちょっとした感覚をポロっとしゃべったり、特定の部分に的を絞った理論を説明したりといった事はあっても、感覚と理論を結びつけて全体的に説明している事は、私が知る限りない。

どこかの優れたコーチにマンツーマンで指導を受けられるような条件下で練習を積めるのは、私よりも感覚のずっと優れた「世界に限りなく近い選手」だけだ。

 

普通の選手や、優れたコーチの元でトレーニングできない選手は、自分で模索するしか手段はない。

「自分で模索する」と言っても、自分の世界だけでグルグルやっていても、どうしても自分の枠から抜け出せない。

自分の枠から抜け出すにはコーチが指摘してくれるのが一番楽で良いが、ほとんどの選手はそう都合よくはいかない。

 

私も水泳本などを読んだりしたが、そこに書かれているのは、どこにでも書いてある初心者向きの表面情報か、研究者が研究するためだけの小難しいだけの情報でしかなかった。

医学のような人類の存亡に直接係わるような社会的意義が大きい分野なら、小難しいデーターを並べて学問とする事は大きな意義があり、「研究者だけが分かれば十分」という考え方は正しいと思うが、貧しい国ではやっている暇すらないスポーツを競技にまで押し上げた上に、小難しいデータを並べるだけで終わっているのなら、学問として研究する意義はほとんどない。

競技スポーツを研究するのなら、選手にフィードバック出来るレベルまで理論を噛み砕く必要があり、かつ、選手にはその理論の示す「感覚」と「イメージ」がセットになって情報提供されていなければほとんど伝わらない。

 

しかし、そんな本はどこにもなかった。そんな情報はどこにもなかった。

あるのは口伝えによる情報だけだが、口伝えで伝える事の出来るトップ選手や指導者と接点を持つ機会は少ない。

私のように、オリンピック選手を次々輩出する強豪校にいて、オリンピック選手と接点を持っていても、ノウハウを手に入れる機会は意外に少ない。

トップ選手に対しては、どこか遠慮や引け目を感じるのもあるし、若い頃はライバル心もあるので競技に関する話はあまりしないといった事があるからだろう。

 

私が長年競技を続けて得てきたノウハウを自分で抱え込んでいてもあまり意味がない。

だからといって、私の感覚や理論が万人に当てはまるものではないし、間違っているとまではいかないまでも、切り口が違っているという部分はあるはずだ。

「理論が正しいか、間違っているか」も重要ではあるが、それよりも、「ひとつの理論」を示す事で、そこを軸に選手自身が「それは間違っている。それはこうじゃないか」といったように思考し、発展させる事が出来るようになる事がポイントである。

何もないところで考え込むよりも、「ひとつの軸」を元に考えた方がずっと思考しやすいし、発展もさせやすい。

私の理論はそこにある。

 

そもそも、競技を通して速くなる事は、「目標」であって「目的」ではない。

若い頃は確かに、「速くなる事」が全てであり、それがまるで目的かのように錯覚しても、そこから学ぶものも多い。

しかし、目標と目的は文字自体がすでに違っているのだから、違うものを同じと捉えていれば、当たり前に悩み、行き詰る。目標と目的が一致していれば、必ずツジツマが合わなくなり、破綻する時がやって来る。

「速くなる事」は、「模索する」ための手段のひとつでしかない。

目標は目的に取り組んでいくための手段でしかない。

 

私の書いている事がすべて正しく、その通りやれば100%速くなれたとしても、そんな事で速くなっても目的を見つける事すら出来ない。

目的のない目標などたいした意義はない。

 

自分の頭で思考する事が目的を見つけ出す一歩であり、そこに意義が生まれ、社会的意義の薄いスポーツにも重みが加わる。

「楽に速く、楽に世界一になれれば、なんてすばらしいだろう」

と若い頃は考えるが、楽に最高峰を極めてしまえば、その先には虚無感が残るだけで不幸だ。

挫折の先には、まだ未踏の地が残されているが、楽に極めた最高峰の先には何もない。

 

人間、「何もない」という状況が一番辛く苦しい。

たとえマイナスであっても、刺激があるうちは、まだ幸せなのだ。

 

若い競技生活では、ほとんどの選手は行き詰る。

世界一は4年に一人しかなれないのだから当然だ。

しかし、チャンスはこの世にいる間はずっとある。

いつでも、戻ってくる事は可能だ。

若い頃に欲しかったチャンスとは違ったチャンスではあるが、いつでもチャンスはある。

 

「夢は叶う」という目標は正しく、「自分は目標が達成できる」と信じる事は重要だが、「夢が叶ったかどうか」は重要ではない。

夢が叶っても、叶った瞬間に「感情的にうれしい」だけで、それ以上得るものはなく、感情はすぐに消えてなくなり、虚無感だけが残る。

夢の実現のために「具体的なアプローチをかけていく」所が重要なのだ。

夢へのアプローチから得られるノウハウは、なくなるどころか、次のステップへの重要な踏み台となる。

 

ベテランになり、頂上に近づけば近づくほど、さまざまな経験や知識、感覚が手に入り、その微妙なバランスを組み立てる事で頂上へ到達できる。

と同時に、微妙なバランスは当然取りにくく、崩れやすい。

ちょっとした、プルやキックの動作ひとつを取ってみても、さまざまな感覚やイメージが合わさって、ひとつの動作が組み上がっている。速くなればなるほど、ベテランになればなるほど、ひとつの動作を組み上げているパーツは多くなる。

 

難しく、高度な高い位置まで来たのだから、当然、悩みの質も解決困難なものとなる。

そこが泳ぐ事を突詰めた面白さだ。

全体を捉え、自分の手の内に入れてきた多くのものの微妙なバランスを取る事が、人生の面白さだ。