学校水泳 (1)

〜 泳げない子には、背泳ぎから教えろ 〜

高橋大和
2009.08.20

  

 

「泳げない子には、背泳ぎから教えろ」

 

私にとっては、スイミングでアルバイトをした時の経験から、20年近くも昔に得た常識だった。

こんな事は、泳ぎに覚えのある大人が、カナヅチの子やブキッチョ、運動音痴の子に水泳を教えれば、すぐに気付く事で、数十年もたった今の時代、学校でもそう教えているものだと、何の根拠もなく漠然と思っていた。

 

ところが、先日、小学生の姪っ子が学校で水泳を習っても泳げず、

「今度、最終検定があるのに未だに13Mしか泳げないから、泳げるようになりたい。水泳を教えて欲しい」

と言ってきたので、泳ぎを教えて来た。

 

うちの姪っ子は、体が非常にやわらかく、クラシックバレーをやらせると非常にセンスがあるのだが、走ったりといったような一般的なスポーツに関しては、確かにどちらかというと運動音痴であり、センスがなく、本を読んだり絵を描くのが大好きな文科系のいかにも女の子らしい少女だ。

 

「運動センスのある子は、特に何もしなくても勝手に泳げるようになるのに対し、運動センスのない子がなかなか泳げるようにならない」

のは、当然の仕掛けである。

 

私自身、運動音痴であり、カナヅチであった。体育の成績は、中学生までずっと2か3だったので、(当時の成績表は、5段階評価で「5」が成績優秀者)

「運動音痴が自力で泳げるようになるのは難しく、泳げないのは、運動音痴のお前の責任だ」

という事に異論はない。

 

どんな事にも、責任は自分にあって、環境要因は2次的要素でしかなく、プラスの能力であれ、マイナスの能力であれ、生まれ持った能力をフルに使って乗り越えていく事が、生きる上で、自分に課せられた人生の責務だ。

 

教える側に責任を転嫁する生き方は、子供であってもするべきではない。

 

私が泳げるようになったきっかけは、小学一年生の学校の水泳の授業で試験をした時、息継ぎが出来ない私は、息継ぎをせずに死ぬほどがんばって泳いで、

「もう20Mは泳いだだろう」

と思って立ち止まったら

「2メートル」

と自分の頭のすぐ後ろで先生の声がして振り返ると、スタートした時に蹴った壁が目の前にあったという事件だ。

 

その当時、小学一年生であるにも係わらず、50Mを40秒程度で泳いで、みんなの前で模範泳法を見せる同級生が同じクラスに2人いた。

その内の一人である逸見拓生くんは、この夏の後すぐに転校していってしまったが、のちに、自由形で日本選手権を制した。日本選手権の記録ではないが、JOの歴代優勝者がこれ。逸見晃治さんは彼のお兄さん

 

私は、

「同じ小学一年生で、なんでこうまで差があるのか」

と、出来ない自分に対して納得がいかず、小学2年の夏に、彼らと同じボランティアスイミングに入って、スパルタ式指導で(^.^)、すぐ泳げるようになった。

 

そうして泳げるようになった「運動音痴でブキッチョな私」のその後の水泳成績は、このHP上のものだ。

 

つまり、運動音痴だからといって、泳げないわけではない。

運動音痴だからといって、速く泳げないわけではない。

 

運動音痴が世界記録を出す事はないかもしれないが、運動音痴だって、うまく鍛えれば、全国で勝負できる程度には十分成長できるのだ。

運動音痴が、他の子よりも泳ぎの上達が遅いからといって、「見捨ててもよい素質」とは限らないのだ。

 

私がカナヅチだったのは、

「運動音痴のせいではなく、その時期に水泳をやっていなかったからで、少なくとも水泳のセンスは元々あったんでしょ」

という事はない。

 

私は小さい頃は、小児喘息だったり、病弱だったので死にかけたり、運動音痴だったりと、どちらかというとスポーツ選手とは対極側の子供だった。

今の「スポーツマン的な健康」は、長年にわたりコツコツと水泳で体を鍛え続けて結果的に手に入れたもので、生まれた時からのものだけではない。

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経験的に言って、人間、鍛えれば鍛えただけ強くなります

数年程度のトレーニングくらいで、

「自分には無理だ。自分には強くなる力はない」

と言い出すのは、単なる言い訳だ。

コツコツと長年続けてから自分の力を評価すべきで、それから評価しても遅くはない。

人間は、想像以上に強く出来ている。

コツコツの 地道に勝る 戦術なし!
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私の水泳センスがそれなりだと見出される程度に成長し始めたのは中学生の頃で、それまでは、他の同級生にずっと遅れを取っていて、水泳友達の全員が学校を休んで九州大会に出場しているのに、自分だけは出場できずに授業を受けていて残念な思いをした小学4年生の春先の事を、はっきり覚えている。

その時の私は、他人の目には、「運動音痴のセンスのない選手」と見えていたはずだ。

 

五体満足であるのなら、泳げない人間は一人もいない。

 

人間の比重は、筋肉のせいでおそらく1より重い。しかし、人間の体の70%は水分である事からして、水より少し重い程度だ。

人間には肺という2L〜4Lものサイズの浮き袋があるので、水より多少重くても十分に浮く事が可能だ。

 

構造的に、泳げないはずがないのだ。

 

「泳げない事」と「運動音痴」は確かに関連はあるが、「運動音痴は泳げない」なんて事は絶対にあり得ない。

にもかかわらず、学校で教えても泳げない子供がいるのは、「教える側からの視点」では、やはり教える側としての落ち度がある。

 

泳ぐ責任は子供にあって、努力する責任は子供にあるのと同様に、教える責任は指導者側にあり、指導技術を磨く責任が指導者側にあるからだ。

 

もちろん、泳げないのは、その泳げない人間の責任だ。

その事を責めようというのではない。

 

そもそも、「泳ごう。泳ぎたい」という意欲のない人間に、泳ぎを教えるのは難しく、「泳ぎたい」という意思すらもない奴に、教える価値はない。

子供だからといって、そんな基本的な部分まで甘やかす必要はない。

 

他にやる事があるのならそちらに力を入れるのは当然だし、単にやる気のない奴は、大人でも子供でも、自分の人生なのだから勝手に自滅してダメにしてしまえば良い。

 

ただ、

「泳ぎたい」

というやる気のある子には、十分な戦術を与える、与えられる技量を身につけておくのは、「先生」という立場上、必要な事だ。

 

いや、豊富な戦術を持って指南できるからこそ、生徒の先を行く事が出来て、「先生」と呼ばれるに値するのだ。

 

姪っ子には「自分でやると決めた事」に対しては非常に根性がある事と、学校指導ではあり得ない「マンツーマン」という非常に恵まれた条件だったからではあるが、13Mしか泳げなかった姪っ子は、2日間で50M泳げるようになった。

(「50M」といっても、それ以上だって、いくらでも泳げる。泳げる人間には分かるだろうが、体力が続く限り泳げる。「50M泳いでごらん」といって泳がせたから、「50M泳げた」というだけだ)

 

基本姿勢さえ教えればちゃんと泳げる子供が、「泳げない」と言ってくるのだから、学校では、

「泳げるようになるための戦術」

を、私が子供だったずっと昔から、ほとんど進化させる事なく停滞させ続けているのであろうと容易に想像できる。

 

たかが水泳ごとき、泳げなくったってたいした問題でもない。必要ならスイミングだってある。

しかし、「水泳ひとつですら、うまく導けないのなら、他の勉強もうまく導けないのではないか?」といったような不安を感じたため、ノウハウを記載した。