泳道楽 (1) 〜 スポーツの本質 〜 高橋大和 |
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■ 競技スポーツってなに? 競技スポーツとは、人生のミニチュア、人生のミニチュア実験場である。
勝ち負けを『目的』にしてスポーツをやっているだけでは、競技スポーツの本質に迫れていない。 勝敗は、『目標』のひとつであって、『目的』ではない。
かといって、勝負に食い下がらず、単に『遊び的な楽しみ』としてやるのは、『遊技スポーツ』であって、『競技スポーツ』ではない。 『目的』に向かうための『手段』として『目標』があってこそ、競技スポーツの本質に迫る事ができる。
例えば、『勝ち負けに拘った勝負をするために、トレーニングなどの準備を行ってきた中で得られるもの』が、競技スポーツの目的に値するものだ。
■ フラクタル 世の中はフラクタルに出来ている。 フラクタルとは、おおよそ『相似関係』の事で、数学の理論だ(エセ科学ではなく、幾何学理論)。
フラクタル理論が指し示すように、この世の中は、『物事の縮尺』が違うだけで、多くの物事に相関関係がある(これは、私の自論であって、科学理論ではない)。
『原子核の周りには電子が回り、その原子の集合体である地球の周りには月が回り、その地球は太陽の周りを回っていて、その太陽系は銀河の中心の周りを回っている』 ように、物事には相関関係がある。 フラクタルだ。
『顕微鏡を覗く研究も、望遠鏡で宇宙を覗く研究も、覗く対象物のサイズが違うだけで、同じ事を研究している』 と言えるのだ。
どんな世界でも、ひとつの事を突詰めれば、同様の所にたどり着く。 学問を突詰めても、スポーツを競技として突詰めても、宗教的に突詰めても、たどり着く所は同じだ。
例えば、量子力学(物理学の一分野)に、『不確定性原理』という理論がある。 アインシュタインが『神はサイコロを振らない』という有名な言葉で、当初、その曖昧な理論に対して猛反発した理論だ。
この不確定性原理は、『原子核の周りを回る電子の位置を計算で求めよう』という事を学問的に突詰めて考えた結果、導き出された答えだ。
その答えは、 『原子核の周りに回っている電子の位置は、どこにあるかは決して知る事は出来ない。(観測者が見た瞬間に、原子がどこにあるかは観測できなくなる)』 といった内容だ。 (理論は正しいとされているが、その解釈には様々ある)
また、仏教の思想に、『一切皆空』という思想がある。 『この世のものは、あると思えばあるし、ないと思えばない。一切は皆、空』 といったような感じの概念だ。 ※※ 参考 ※※ 『どうせ空っぽなんだから、この世は空想だ。だからどうでもよい。適当に生きろ』 という教えではありません。例えば 『1001円の0。ゼロは空っぽなんだから、0円は何もない。ゼロは無意味なんだからといって、1001円のゼロを省いて11円でも良いかというと、そんな事はない。0は、1や2のような意味の「有」ではなく、やっぱり「ゼロ(無)」なんだけど、ちゃんと意味はある。空だからといって、無意味という事はない』 といったような解釈になるようです。(何かの本で読んだ説明を借りています) 同様に、不確定性原理も、『ある瞬間の電子の位置を人間が特定する事は決して出来ない』からといって、『(不確定だからと言って)原子核の周りに電子が回っていない』わけではない。 不確定性原理のこの矛盾するような『曖昧』に対して、アインシュタインは『神様が、サイコロを振るかのような、曖昧な事をするはずがない』と反発したわけですが、結果的に不確定性原理も、現在、支持されています。
学問を突詰めて得た『不確定性原理』も、宗教を突詰めて得た『一切皆空』も、『あるような、ないような』という曖昧な世界だ。 近代物理学の答えと、宗教の答えの間に千年単位もの時間差があっても、やっぱりフラクタルだ。
同様に、『泳ぎ続ける事(競技スポーツを続ける事)は、人生を歩み続ける事と、縮尺が違うだけで同じ事』だと言える。
人生70年も歩めば、何かを得る。 競技スポーツで勝負を何度も繰り返した『ミニチュア版人生』でも、何がしかを得る。
『人生70年から得るもの』と『勝負の世界で得るもの』は、縮尺が違うだけで、同じ形のもの(同じ法則)だ。 フラクタルだ。
ただ、人生は一度きりで、終わってからのやり直しは効かないが、競技スポーツの勝負なら、勝っても負けても、次がある。
ミニチュア版人生から得られた教訓は、スポーツの世界だけではなく、その後の人生(例えばビジネス)に応用して、再度、試す事も、生かす事もできる上に、『スポーツにおける敗北のダメージ』は、人生の敗北に比べればずっと小さい。 競技スポーツにおける敗北の経験は、人生の踏み台として十分に生かせる。 勝負の振り見て、我が振り直せ
■ 勝負 『オリンピックは参加する事に意義がある』 これには、競技スポーツ選手として、ずっと違和感があった。
『競技スポーツを突詰めた事のない奴の、頭の中だけで考えた、きれい事』 といったような、しっくりこない感覚があった。
しかし、このクーベルタンIOC元会長の演説は、この部分だけが意訳されて一人歩きし、表面的な部分ばかりの軽々しい言葉として使われているだけだという事を知って、その真意に納得できた。 『オリンピックは参加する事に意義がある』の演説には続きがあって、その続きの演説部分にこそ、言葉の真意がある。
原文が見つからないので、詳細は分からないが、 『勝つことよりも、参加する事ができるほどの努力を積み重ねてきた所に意義がある』 という事を言った演説であったというから、これならば、アスリートとして十分に納得できる演説だ(JOCのHP。 ウィキペディアのHP)。
学問でもそうだが、『競争する事』は良い事でも、悪い事でもない。 『競争』を良いものにするのも、悪いものにするのも自分自身だ。
『競争における勝負』を『目的に向かうための目標』として利用し、積み上げる部分に価値があるのであって、勝利自体に価値があるわけではない。
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