サンタクロース

 



小学3年生の時、僕は、まさのりくんと大げんかをした。


「サンタクロースなんていない。プレゼントは親が買ってるんだ」

なんて言うもんだから、僕は猛烈に反発した。


だってさ、サンタさん、いるに決まってるじゃん!

サンタを見てやろうと、毎年毎年、布団の中で待っていても、ついつい寝ちゃうもんだから・・・見たことないだけ。


でもさ、朝、頭の上にそ〜っと手を伸ばすと、ちゃんとあるじゃん。

カサカサって音がする箱が。


こ・れ・が

ぜ・っ・た・い・て・き・な

証拠だよ。


小学4年のクリスマスの朝も、カサカサはちゃんとあった。

あったんだけど、その時、僕は気づいちゃったんだ。

プレゼントを包んでいる包装紙・・・見覚えがある・・・「寿屋デパート」


サンタクロースがレジに並んで買い物をしない事くらい、僕だってわかる。

ものすごくショックだった。



でもね、あの朝から30年以上たって分かったんだけど、子供だった僕の主張は正しかった。


人間は年を取ると、だんだんと小さく縮んでいくじゃない。

体も、脳も。


僕のおばあちゃんも、「あ〜〜〜」と大声を出したり、悪態をつくこともあった。

子供のような、まる〜い目をして言うもんだから、何を言われてもかわいいけどね。


「今日は泊まっていくから、夜はひとりじゃないよ」

と言えば、うまく出せなくなった声を振り絞って

「うれぢぃ。うれぢぃ」

と、顔をくしゃくしゃにして、自分の思いをまっすぐ表現してくる。


知ってた?

年を取っても目玉だけは、まるで子供のように若々しくて、きれ〜なのね。


まだ元気だった頃のおばあちゃん


でもね、おばあちゃんはボケてるんじゃないよ。

ボケ老人なんて一人もいない。

ほんとだよ。


おばあちゃんは誰のことでも「しぇんしぇ(先生)」と呼ぶようになってたけど、おばあちゃんは戦後の軒先き商売を大きな製氷会社へ育てあげたほどの商才があって、

「僕はもう、サラリーマンじぁ生きて行けそうにないけど、商売って難しい?」

って聞くと、痩せ細った体から出るガラガラの声で、

「かんだん(簡単)、だよ、半分、売れだら、値段を、しゃげて(下げて)、夕方まで、に、じぇんぶ、売りぃぎぃる、でも、みんなは、それが、できない、から、むじゅかぢぃ(難しい)」

と、ゆっくりとした口調で息を切らしながら答える。


着物に割烹着 かわいぃ〜〜


現在の事は短い言葉と感情でしか表現できないんだけど、昔の記憶の中からなら、自分の気持ちを言葉で伝えられる。

子供のように見えるおばあちゃんの中には、僕を心配する大人のおばあちゃんが、ちゃんと、いる。

年寄りって、すごくかわいいでしょ。


肺に落ちちゃうから水も食べ物もあげられなくて、骨と皮だけになっちゃってるおばあちゃんの背中に初めて手を差し入れた時、僕はものすごく驚いた。

おばあちゃんの背中には、左右に小さく広がった翼があったから。

おばあちゃんの見た目は、天使とはずいぶん違うんだけど、手に触れるその感触の方は、しっかりと、翼。


それはもちろん、痩せ細ったおばあちゃんの背中から、ぼっこりと浮き出た肩甲骨なんだけど、

それはそうなんだけどね・・・


シワシワに小さく縮んだおばあちゃんの体には不釣り合いにしっかりとした翼なもんだから、それはまるで、これから必要になるから生えてきたかのように思えたんだよ。


「僕の知らないおばあちゃんの人生が、背中のコブになって浮き出てきて、そこから翼が生えてきたんじゃないか」って、誰だって、そう思うでしょ?


三つ編みおさげで自信のなさそうな おばあちゃん kawaii〜 (先生の右隣)


だってね、僕は、おばあちゃんが息を引き取る1時間前の目を見たんだもん。

前日まで苦しそうにしていた呼吸が穏〜やかになってて、薄っすらと開いた目で、僕の顔を、じぃーっと見てるの。

僕の話しを1時間も聞きながら、まばたきもせずに、じぃーっとね。

途中、2回くらい「ぅあぁ〜〜〜」って言ってたけど、もう、大声じゃなくて、小さく弱々しいけど、なが〜い、あ〜〜〜。


このシーンを経験した人たちが仏様の顔をイメージしてきたんだなぁ。

これから旅立つ人たちが、薄っすらと開けた目で見つめるもんだから、どの仏像をみても半眼。

おばあちゃんが僕の顔をじっーと見てた目も半眼だったけど、おだーやかな顔をしてたもん。


「見たり触ったりできる現実」と、目には見えない「人の心」との間にある「奥行き」から、天使も仏様もイメージされてきたんだから、サンタクロースだって、目では見ることができない存在の、はず。

「目には見えない」ってことを前提にすれば、大人が持っている「子供に対するやさしい気持ち」こそが、サンタクロースの正体なんだって、目には見えないけど、その気持ちは間違いなく存在してるって、思うでしょ。



競泳は、誰の目にも明白なタイムで1/100秒を競う競技。

でも、タイムは「目標」であって、泳ぐ「目的」にはならない。


大切なものはいつも、目には見えないから、それは大人にとって難しい事なんだけど、楽しいとか、気持ちいいとか、そういった感覚の中にこそ、泳ぐ目的がある。


水泳は、感覚の世界をイメージ化して自分の体で表現するものだから、絵や音楽といった芸術と、分野は同じ。

青空から透けて見える宇宙の黒色が、薄い水色に深みを与えて、人が見上げ見る青さとなっているように、記録の背景にある歩みが、「出てきた結果」に奥行きを作る。


その奥行きは、人の心に通じているから、負けてなお、負けた時こそ、深みを増す。

そこには、負けた時だけでなく、勝った時でさえ感じる「高過ぎて越えられそうにない次の壁」は、ない。


おばあちゃんが寝ていた小さなベットの空間が、「心の奥行き」を通して、国も人種も、時代さえも超えて、人間の誰もが持っている世界観と繋がっていたように、深みはあっても、壁なんてない。


水泳は、人間に速さを求めていない。

速さを追求したその先にある「奥行き」を求めている。


そこは暗くて長い苦悩がある世界かもしれないけど、その暗闇こそが、目では見ることのできない心の世界を押し広げていて、泳ぎ続けるからこそ、勝ち負けを超えた深みのある結果となって、自分の知らない誰かの心の中で、静かに深く、輝き続ける。


僕は来年、レースに復帰します。

でも、速さは競わない。


これは、「水の抵抗に素直に負けて、水流に溶け込む泳ぎ」をレースにまで広げる実験ではありますが、均質な価値観に対する僕の抵抗であり、静かなる決意でもあるのです。


2017/12/24


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